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初期仏教と龍樹の研究
by zapo1
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死者は何も語らない
よろしい。
現代の社会を形成したものは、言語であろうと法律であろうとシステムであろうと。
それは、過去からの継承である。
それを死者からの継承と呼ぶなら呼ぶがよい。

しかし、死者は語らない。
生者だったときに、語られたものだけが継承されるのである。
継承は生者にある。
語らないもののためにはないのだ。

よろしい。
死者の声を聞くがよい。
死者から学ぶことがあるなら、死者に感謝するがよい。

しかし、聞くものは生者なのだ。
生者がいなければ、死者の声は聞くものがいない。
それに、怯えるのも、勇気を与えられるのも、知恵を得るのも、結局は生者なのだ。
死者は何も変えられない。

よろしい。
誰もが死ぬのだ。
誰もが死者に成るのだ。

しかし、死者は誰もいない。
死者には「誰も」がない。
「誰も」と意識できるのは、生者だけだからである。
死を知るのは、生者なのである。

よろしい。
祖先が今を作ったならば、死者が生者を生んだと言うがよい。
死者に感謝するがよい。

しかし、死者は生まない。
生者だったときに、生んだだけである。
生んだものも生者、生まれたものも生者である。
生者にこそ感謝すべきだったのだ。

よろしい。よろしい。
死者がないので、生者もない。




# by zapo1 | 2011-09-04 03:19 | エッセイ
21cの龍

 龍樹
 龍馬
 龍彦

「龍」は時代を時代を変えてきた。

京都大学小出氏は「3.11から世界は変わりました。」と言う。

虚実を明らかにしなければ、生きていけない時代がきたのである。

今世紀の「龍」は科学者、医学者として生まれたようである。

「国土は先祖から受け継ぎ、子孫に渡すものである。私たちは通過点に過ぎない。」

と児玉龍彦教授は語る。

「国土」はわがものであるか。
いえ、わがものではありません。

わがものでないものであれば、それは無常か。
無常である。

無情であれば苦である。
苦であるものに執着してはならない。

と、ブッダなら、言うのだろう。

「龍樹」ならば、「国土」という言葉を直接相手にするだろう。

一学者が国会に喝を入れるその姿にもう一つの「龍」龍馬を見る思いである。

国会にて(2011年7月30日)
http://www.youtube.com/watch?v=eubj2tmb86M&feature=player_embedded#!
http://www.youtube.com/watch?v=LunV27H3oW8&feature=player_embedded#!

プレスクラブにて(2011年08月12日)
http://www.videonews.com/asx/press/110812_kodama_300.asx

原子力を推進してきたのは、東大。
そして、原子力を止めるのも、やはり東大なのかもしれない。

児玉龍彦、東京大学 先端科学技術研究センター教授。
新たな「龍」となるではなないだろうか。
# by zapo1 | 2011-08-27 16:13 | エッセイ
「カーラーマ経」
「カーラーマ経」(パーリ仏経典)


仏教を信奉する上での自由が述べられています。
それは最高の自由であり、最高に民主的です。

カーラーマの人々が、

「どう受け入れたら良いのか分からないほど、いろんな教義を教える人がいるので、どうしたら良いでしょう」と

質問したことに対し、

ブッダが、カーラーマ経の十項目と呼ばれているもので答えたものである。


1.長く言い伝えてきたからといって信じてはいけない。(古くからある噂話など)

2.長く伝承されてきたからといって信じてはいけない。(古くから伝へられてきた公の習慣や話など)

3.評判になっているからといって信じてはいけない。(人気や評判になっているもの)

4.教本の中にあるからといって信じてはいけない。(経典、テキストなど文字化されたもの)

5.論理によって信じてはいけない。
 (誰かの教えが論理的に正しくても、その理論自体が誤りであったり、理論の用い方が誤っていることもあるので、すぐには信じてはいけない。)

6.意味的に理論にあっているからといって信じてはいけない。(Philosophy、哲学)

7.状況によって信じてはいけない。(常識)

8.自分の見解に耐えられるからといって信じてはいけない。(我見)
 (自分の見解に耐えられるからといって信じてはいけない。自分に何らかの見解がある場合、相手が自分の見解に合うような説得をして来ても、すぐには信じてはいけない。
   なぜなら自分の見解が間違っていることもあるから。)

9.話す人が信頼できそうだからといって信じてはいけない。
 (話す人の言葉や態度が信頼できそうだと言う理由で信じてはいけないということ。)

10.話しているサマナ(出家)が自分の先生でも信じてはいけない。
 (話してである僧が、自分の先生だからといって信じてはいけない。)

これを良く理解して、いま挙げた十の理由で、簡単に信じてはいけない。
しかし、ブッダは、この十種類の物に関わるなと禁じてはいない。 
十分熟慮する資料として、話を聞いてもいいし、噂を聞いてもいいのです。
但し、すぐには信じないで、それで苦を無くすことができるかどうかを試金石として
もし苦しみがなくなりそうなら、取りあえず実践してみて、真実であることが証明されてから、
それから信じるようにと教えている。

( プッタート比丘 法話;「三蔵経の中のダイヤモンド」1985,5,27より)「カーラーマ経」(パーリ仏経典)
# by zapo1 | 2011-08-15 00:14 | 初期仏教研究
「中論」青目の註釈、鳩摩羅什の訳、Zapoの現代語訳28
第十二章「苦の考察」(觀苦品第十二)

ある人が説いて言う。
1「(苦は)自身によって作られたもの(自作)と
  及び他によって作られたもの(他作)と
  両者によって作られたもの(共作)と
  原因がなくして作られたもの(無因作)と
  このように諸々の苦を説くが、
  (苦はそれの)結果であるということにおいては
  すなわち そうではない。」

 ある人は言う。「苦悩は自作」と。
ある人は言う。「他作」と。
ある人は言う。「また自作にしてまた他作」と。
ある人は言う。「無因作」と。
結果においては、皆そうではない。
「結果においては、皆そうではない。」とは、あまねく生き物(衆生)は、あまねく条件(衆縁)をもって苦に至り、
苦を厭いて消滅することを望んでも、苦悩の本当の原因や条件(因縁)を知らずに、四種類の誤りがある。
この理由で「結果においては皆そうではない。」と説くのである。

なぜならば、
2「苦がもし自作ならば、すなわち条件(縁)よりは生じない。
 「この陰(五蘊)」を原因としてあって、そして「かの陰(五蘊)」が生じるからである。」
 もし苦が自作ならば、すなわちあまたの条件(衆縁)より生じない。
自とは自性より生まれることから名付けられる。
このことはそうではない。
なぜなら、前の五陰を原因として、後の五陰の生があるからである。
この理由で、苦は自作であることを得られない。

 質問して言う。
もしこの五陰はかの五陰を作ると言うならば、これこそ他作ではないか。

 答えて言う。
このことはそうではない。

なぜなら、
3「もしこの五陰は かの五陰に異なると言うならば、
 このようならば、すなわちまさに、他より苦を作ると言うべきである。」
 
 もし この五陰は かの五陰とは 異なり、かの五陰は この五陰と異なるならば、
まさに 他より作られるべきであろう。
糸と布が異なるならば、まさに糸を離れて布があるべきであり、
もし糸を離れて布がないならば、すなわち布は糸に異ならないようなものである。
このように、かの五陰に異なるならば、すなわちまさに この五陰を離れて かの五陰があるべきである。
もしこの五陰を離れて かの五陰が無いならば、すなわち この五陰はかの五陰に異ならない。
この理由で、まさに 苦は他より作られるものと言ってはならない。

 質問して言う。
自作とはこれ人なり。
人は自ら苦を作り、自ら苦を受ける。

 答えて言う。
4「もし人が自ら苦を作るならば、苦を離れた人は何であろうか。
 しかも(そのような)かの人において、しかもよく自ら苦を作ると言えるのか。」

 もし人は自ら苦を作ると言うならば、
五陰の苦を離れたのであれば、どこに別人があって、しかも、よく自ら苦を作られるだろうか。
まさにこの人は説こうとして、しかも説くことができないのである。
この理由で、苦は 人自ら作るのではない。

 もし人自ら苦を作らず、他人が苦を作って、この人に与えるというならば、これまたそうではない。
なぜならば、
5「もし苦は他の人が作って、そしてこの人に与えるならば、
 もしまさに苦を離れた場合に この人が受けるものは何だろうか。」

 もし他人が苦を作り、この人に与えるならば、五陰を離れてしまい、この人が受けるものはあることがない。

また次に、
6「苦は もし かの人が作り、それを持って この人に与えるならば、
 苦を離れて どんな人があって、しかもよくこれを授けるというのか。」

もし かの人が苦を作って この人に授与する と言うならば、
五陰の苦 を離れて、何を、かの人が苦を作り持って、この人に与えることがあるのだろう。
もしなるならば、まさにその姿を説くべきである。

また次に、
7「自作がもし成立しなければ、何がかの苦を作るのか、
 もし、かの人が苦を作るならば、またすなわち「自作」と名尽く。」

 種々の原因と条件(因縁)によって、かの自作の苦は成立しない。
しかして、他作の苦を言おうとしても、これまたそうではない。
なぜなら、これと かれとは 相続するためである。
もし、かれが苦を 作るならば、かれに於いても、また自作の苦と名付けられる。
自作の苦は 先にすでに論破した。
あなたが 受ける自作の苦は成立しない という理由で、他作も また成立しない。

また次に、
8「苦は自作と名付けられず、
  性質(法)は、自作の性質(法)ではない。
  かれは、自体あることがない、何が彼の作れる苦があるといえるだろうか。」

自作の苦は 正しくない。
なぜなら、刀が自らを割くことができないように、
このように、性質(法)は 自ら性質(法)を作ることができない。
この理由で、自作が成立することができない。
他作も また正しくない。
なぜなら、苦を離れて かれの自性はない。
もし苦を離れて、かれの自性があるならば、
まさに かれが苦を作るというべきであろう。
かれも またすなわち、苦である。
苦が 自ら苦を作る となぜいえることができようか。

質問して言う。
もし、自作と他作とがそうでないないのならば、まさに共作があるではないか。

答えて言う。
9「もしこれやかれの苦が成立しないならば、まさに共作の苦があるべきというなら。
 これやかれの苦すらなお作られることがないのに、
 どうしたら 原因の無いものが作られることがあろうか。」

 自作と他作すらなおなお過失があるのに、どうしたら原因の無いものが作られるといえるのか。
 原因の無いこと(無因)は過失が多い、観作作者品の中に説いたようなものである。

また次に
10「ただ苦において、四つの種類の論理(義)が成立しないのみではなく、
  一切の外界の万物に 四つの論理はまた成立しない。」 

仏法の中に五蘊(五受陰)を説いて、苦を定義づけるけれども、
外道の人がいて、苦を受ける事を苦であるという。
この理由で、説くのである。
ただ苦に於いて四種の義が成立しないことを説くだけでなく、
外界の万物・地水・山水など、一切の性質(法)にも 皆 また成立しないと。
# by zapo1 | 2011-08-01 12:23 | 中論
「中論」青目の註釈、鳩摩羅什の訳、Zapoの現代語訳27
第十一章「輪廻の前後の究極の考察」(觀本際品第十一)

質問して言う。
無本際経に「衆生は生き死に往来して、究極の根本(本際)は得ることができない。」と説かれる。
(※ 無本際経→『中阿含経』第五十一「本際経」と見られるが、内容がやや異なる。)

この中に、衆生あり、生死ありと説かれる。
何の因縁をもつ理由で、しかもこの説を作られたのか。

答えて言う。
1「偉大な聖者(大聖)の説くところには、究極の根本(本際)が得ることができないと説かれる。
 生死(輪廻)の初めがあることはなく、またまた終わることもあることがない。」

聖人には三つの種類がある。
一つは外道の五神通を得た者、二つ目は阿羅漢と辟支仏、三つ目は神通を得た大菩薩である。
仏はこの三種の中において最上であるために、大聖と言う。
仏の言説されるところは、真実の説でないことはない。

 生死(輪廻)には初めがない。
なぜならば、生死(輪廻)の初めと最後は知ることができないからである。
この理由で「無始」と言うのである。
あなたが、もし初めと最後とはなくとも、当に中間があるというならば、これもまたそうではない。

なぜならば、
2「もし初めと終わりとが あることがないのならば、 
  その中間に まさに何がある といえるのだろうか。
  この理由で、この中間において、先と後と共に またないのである。」

中間と終わりによって、初めがある。
初めと中間によって、後(最後)がある。
もし始めがないのであれば、何を中間というのか。
生死の中には、初めと中間と最後がない。
この理由で、先と後と共とは得ることができないと説かれるのである。

なぜなら、
3「もし先に生があり、後に老死があるというならば、
  老死がないのに、生があることになり、
  生がないのに、老死があることになる。」

4「もし先に老死があり、そして後に生があるなら、
 是は則ち無因となる。
 生がないのに、老死があるのである。」

 生死(輪廻)する衆生は、もし先に生じてから、漸(ようや)く老いがある。
しかして、後に死があるならば、すなわち生には老死はない。
性質(法)としてまさに生に老死があり、老死に生があるべきである。
また、老死がなく、しかも、生があるというのも、またそうではない。
また、生を原因としないで、老死があるだろうか。
もし先に老死があって、後に生があるならば、老死は則ち原因が無い(無因)となるだろう。
生が後にあるという理由からである。
また生じることなく、どうして老死があるであろうか。
もし生と老死との先と後となることが不可能であると言い、いっときに成立すると言ったとしても、
これまた過失がある。

なぜならば、
5「生とおよび老死が いっときに共になることができない。
  生じつつある時(生時)にすなわち死があり、 
  この二つ(生と老死)が俱に 無因となってしまうからである。」

 もし生と老死とが一時になるならば、すなわち これはそうではない。
なぜならば、生時にすなわち死があるという理由である。
性質(法)として、まさに生じつつある時は「有」であり、死につつある時は「無」になるべきである。
もし生じつつある時に死があるならば、このことはそうならない。
もし一時に生じるならば、すなわち互いに原因となることはあることがない。
牛と角が一時に出て、則ち互いに原因とはならないもようなものである。

この理由で
6「もし初めも後も共にも みなそうでないならば
 どのような理由で、しかも戯論して、 生と老死があるというのであろうか。」

生と老と死とを思惟すると、三つとも皆、過失があるので、則ち生じることはなく、畢竟空なのである。
あなたは今、どのような理由で、貪著して、生と老死とを戯論して、決定された姿(相)があるというのだろうか。

また次に
 7「諸々のあらゆる因果 姿(相)とおよび姿となるものの性質(可相法)
  受と受者などの あらゆる一切の性質は」

 8「ただ生死において、本際が得ることができないのみではなく
  このような一切の性質は みな本際はないのである。」

 一切の法とは、いわゆる原因結果(因果)・相・相ならしめる性質(可相)・受及び受者などである。
このどれにも「究極の根本」(本際)はない。
ただ生死に本際が無いと言うのみではない。
省略して、開いて示す(開示)ために、生死に本際がないと説くのである。
# by zapo1 | 2011-07-31 21:57 | 中論
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